整理整頓が苦手なので、自室はいつも散らかっている状態です。今年こそは身の回りにある使わないものを少しずつ減らしていきたいと思います。
片付けられないのは部屋だけではなくて、PCでも同じことです。デスクトップがショートカットやフォルダ、そしてファイルでいっぱいなのはもちろんですが、ブラウザのタブも気がつくと100個以上開いていることもざらです。
ある程度散らかっていた方が落ち着くというのは、確かにあります。でもそれは、それだけ自分の心の中も散らかっているということなのかもしれません。▲
あの日から10年たったとは思えないくらい、時間がはやく流れていくのを感じます。当時もテレビなどで、震災直後の風景を撮影した動画が流れていましたが、その風景が夢の中に出てきて、しばらくニュース番組を見られないこともありました。
あたりまえの日常が、いつ失われてもおかしくないというのは意識するようになりましたし、今回の新型感染症でもその思いを強くしました。もちろん備えることも大事ですけれども、後悔のないように生きることができたらな、とも思います。▲
暖かくなってきたら、なんだか昼間も眠く感じることが増えてきました。この眠気は花粉症の薬の副作用だけではないと思います。こんなときに下手に寝てしまうと、かえってだるくなったり、頭が痛くなったり、また夜なかなか寝付けなくて困ることがあります。寝るにしても短い時間にとどめるようにしています。
夜、気持ちよく寝られるというのは、幸せの一つなのかなと思います。何か悩み事があったり、体のどこかが痛んだりしたら気持ちよく寝られませんからね。寝る前に軽い体操をしたり、本を読んだりして、心身の調子を整えてから寝るようにすると、気持ちよく起きられることが多いです。顔を洗う時にも肌がなめらかになっていて、心身の状態は皮膚に現れることが実感できて面白いです。▲
15年前のソフト(今はWindowsでもアプリと呼ぶことが多いみたいですね)が、最新のWindowsでも動くというのはすごいなと思います。互換性を維持することは大変だと思いますが、利用者としてはありがたいことです。
昔はOSとかアプリを、自分好みに細かいところまで設定していました。今でも使いやすいように設定していますが、以前ほど細かく設定することはなくなりました。Firefox(延長サポート版〔ESR〕を使っています)はアドオンてんこ盛りで使っていましたが、今は片手で数えるほどです。クリップボードの履歴を取るために、専用アプリからWindows標準の機能(Win+V)に変えたときは、多少の不便を感じました。でも使っているうちに慣れてしまうものですね。▲
好きなことをやって幸福になるというのは、簡単そうに見えてかなり難しいことのように感じます。短期的には快楽をもたらしても、長期的に見たら苦痛に変わるということはいくらでもあります。たぶん自分は利己主義者なのだろうと思います。ただ利己主義者は目先の利益にとらわれるあまり、将来得られるであろう大きな利益を失いがちです。なれるのなら、ちょっと知恵を持った利己主義者になりたいと思います。
利己主義と個人主義が同じように語られることがありますが、少し違和感を覚えます。利己主義は小さな自分(エゴ)があり、個人主義はその小さな自分を捨てること、そしてその結果現れるより大きな自分に本質があるように思うからです。▲
他の人の話を聞いたり、文章を読んだりするのは、情報を得るという大切な役目もありますが、共感するためというのもあると思います。本を読んで、昔の人たちも似たようなことで悩んだり、同じようなことを考えていたりしていたということを知ると、安心感とともにうれしい気持ちになります。と同時に、時代や環境が変わっても、人間はそうそう変わるものではないんだなとも思います。
自分が考えたと思っていることでも、本当は誰かの受け売りであって、話す言葉、書く文章にしても引用の連続と感じることがあります。もちろん単なる引用ではなくて、その間には編集という作業が入りますから、オリジナルよりもまずい出来になるということも十分にあります。主題は同じでも、その時代、その場所、その人に応じた変奏や演奏があると言ってもいいかもしれません。▲
同じことでも自分から進んでやるのと他人から言われてやるのとでは、感じ方が違います。役に立つという考えでやると、なんとなく退屈なことのように感じられます。職業性とか専門性から離れて、純粋に楽しいからやる、面白いからやるとなると、そのことについて心に留めている時間も長くなりますから、嫌々やるよりも上達がはやいように思います。
でもこれとは逆の経験もあって、自分からやりたいと思ったことであるし、それをしている自分の姿も想像できる。またそうなりたいという気持ちも強いのに、恐ろしく進歩が遅いことがあります。それでも何年か続けましたが、ものにならないと思い断念したことがあります。
「好きこそ物の上手なれ」も分かりますし、「下手の横好き」というのも本当だなと思います。どちらも“好き”という共通点はありますが、上手と下手を分けるものはいったいなんだろうと思いますね。▲
アロマテラピーで用いる精油(エッセンシャルオイル)を焚(た)いてから寝ることが多いです。“焚く”といっても火は使わずに、電球で暖めるタイプのアロマランプを使用しています。以前はいろいろな精油を買って試していましたが、今はラベンダーとティートゥリーの二つの精油を使うことがほとんどです。
漢方薬は生薬を使っているからでしょうか、香りの高いものが多いです。漢方を服用するときにお湯を用いるのも、香りや味を立たせる意味もあるのだと思います。
私はお医者さん方が、いまよりももっと匂いを利用できそうに思う。というのは、匂いがしばしば私を変化させ、それぞれの匂いの性質に応じて私の精神に作用するのを認めたからである(モンテーニュ 原二郎訳『エセー』)
「匂いの性質に応じて私の精神に作用する」という記述は興味深く感じます。エマソンは「自然」の中で「自然の事実はすべて何かの精神的事実の象徴だ」(酒本雅之訳『エマソン論文集(上)』)と述べています。精神と香りは対応関係にある(照応している)から、香りの性質に応じて精神に作用すると言えるのかもしれません。▲
外の音がうるさく感じられたり、耳鳴りがしたりするときは自然の音を流すと気にならなくなることが多いです。自然の音の中でもホワイトノイズに近い滝の音は、音をマスクする効果が高いように感じます。個人的にはせせらぎの音の方が、リラックスできて好きです。音を完全に消そうと考えるよりも、多少してもいいというおおらかな気持ちで、再生する音量を抑えめにすると効果的のように思います。
そのときの気持ちによって、音楽がうるさく感じられるときもあります。そのような時でも、自然の音ならスッと耳に入ってきます。自然は偉大な音楽家ですね。音楽だけでなくあらゆる分野において、自然は人類に比類するもののない存在だと思います。▲
今日は耳の日だそうですね。ここ数年、花粉症を含め耳鼻科にお世話になることが多くなりました。耳に関しては耳掃除をしていただくのがほとんどです。耳が詰まったような感じと耳鳴りがしたときに、病院で耳掃除をしていただくとほとんど治ります。“ほとんど”というのは、ストレスや睡眠不足などの生活習慣の乱れによるものもあるからです。ともかく、病気によっては治療が遅れると症状が残ることもあるらしいので、耳に異常を感じたら、なるべくはやく耳鼻科を受診したほうがよいと思います。
泳いだ後に耳に入った水が抜けにくくなると、そろそろ耳鼻科に行かないとならないかなぁ……と思います。たぶん耳あかが邪魔をして水が出にくくなっているのでしょうね、耳鼻科で耳掃除をした後は、耳に水が入ってもすぐに出てきます。以前は水が出てこないと、綿棒を奥まで入れたり、こよりを作って耳の穴に入れて水を吸わせたりと、今だったら絶対にやらないことをしていました。今なら自然乾燥にまかせると思います。
耳あかがたまってしまうのは、自分で行う耳掃除にも問題があると思います。気持ちいいのでついついやってしまいます。耳あかは健康な人であれば自然に排出されるので、基本的に不要という意見が多いようです。また耳あか自体にも耳を保護する役割があるという話もあります。耳かきは禁断の快感なのかもしれません。▲
以前、居間で使っていた時計はだんだん遅れていく時計でした。それはそれで面白みがあったのですが、不便に感じることもあり電波時計に買い替えました。購入した時計はGPSの電波を受信して時間を修正してくれるそうで、時計も進化しているのだなと感じました。シンプルなデザインで見やすく、またどこかかわいらしさも感じられて気に入っています。
普段外出するときは腕時計の代わりに、歩数計やスマホについている時計の機能を利用しています。以前は腕時計をしていましたが、特に夏になるとかぶれることがあったので、ポケットに入れて利用していました。また一時期は懐中時計を使っていたこともありました。
試験の時など机に置いておく時計は、スマホはもちろん禁止なので使えませんが、歩数計を出すのもはばかれます。腕時計か懐中時計を、それも時間を視覚的に把握・計算しやすいアナログの時計を一つほしいですね。家にいる時でもスタンドに置いて使え、ムーンフェイズという月の満ち欠けが分かる機能がついた懐中時計がいいなと思います。▲
3月になりました。去年は新型コロナウイルスのことで心がいっぱいで、あまり何か新しいことをしようという気持ちになれませんでした。今年はその分、何か始めたいと思っています。今の生活様式に慣れたというのもあるでしょうけれども、少し心にゆとりが生まれたのかなと感じます。
何か新しい言葉を――まず思い浮かぶのは外国語ですが、数学やプログラミング言語などの人工的に作られた言語も含めて――学んでみたいです。でも日記を1ヶ月続けてみて感じたことですが、自分の場合はまず母語である日本語を学び直した方がよいという気もします。正直、ここまで文章を書くのが難しいとは思いませんでした。
書くことに慣れていないということもあるでしょうが、まとまった文章を読むことが減ったということも無関係ではないと思います。細切れの文を読む機会は増えましたが、紙の本を読むことはほとんどなくなりました。1日30分でもいいので、本を読む時間を持ちたいと思います。▲